【はじめに・・・】
臼杵市内から北方、4キロほど、熊崎川の西側台地上に所在する古墳です。
築造年代は今から1600年ほどまえ、5世紀の初め~中ごろとされています。付近には丸山古墳、田崎古墳、鏡塚古墳などの円墳が造られているほか、熊崎川の対岸には同様の前方後円墳である下山古墳や、円墳の神下山古墳が所在します。
【古墳の規模と被葬者および副葬品】
・古墳の形:前方後円墳 全長は87m(後円部計50m・推定前方部幅45m)
・主体部:凝灰岩製の刳り抜き式舟形石棺2基
・被葬者:各石棺から、男女2体ずつの人骨が出土
・副葬品:鉄剣、鉄刀、鉄矛、鉄製鎧、銅鏡、貝輪、短甲型埴輪等
・短甲形石人:前方部と後円部のクビレ部分東側に2基並べて立てられていた
(※この石人は昭和51年(1976)6月5日に国指定重要文化財に指定されました)
【被葬者について】
古墳の石棺に納められていた人骨は、一つの石棺に2体(男1体・女1体)、合わせて4体が出土しました。また、出土した人骨の状態は非常によく、分析により各被葬者(埋葬された人)が当時どのような状態であったのかも少しずつわかってきました。
以下は人骨の詳細です。
・1号石棺内(写真向かって右側)の人骨
1号人骨・・男性 老年(60歳代)
推定身長・・158㎝
歯槽膿漏を患っていた痕跡あり
2号人骨・・女性 熟年(50歳代)
推定身長・・143㎝
頭骨陥没の痕跡が認められる。(しかし、それが死に至る直接的な原因ではない)
2体に共通する点は、ともに体格は小柄で華奢、かなり身体を酷使している
・2号石棺内(写真向かって左側)の人骨
3号人骨・・男性 熟年(50歳代)
推定身長・・165㎝
4号人骨・・女性 熟年(40歳代後半)
推定身長・・159㎝
2体に共通する点は、ともに体格がよく大柄、骨の発育もよい
※4体すべてに見られる共通点
「外耳道骨腫」という小さな骨の膨らみが外耳に認められた。また、男性骨に比して女性骨の方がより大きい
当時、古墳の被葬者たちが支配していた一帯は、「白水郷(あま)」と呼ばれ(現大分市の佐賀関から臼杵、津久見等の豊後水道一帯、さらには豊後大野市あたりまでをさす)
そこに居住する集団は「海部(あまべ)」・「海人部(あまべ)」と呼称されていました。
この事からも石棺に納められていた被葬者たちはいずれも、漁業を生業としていたと考えられます。また、外耳道骨腫が認められたことから、広範な地域を治めていた豪族の首長といえども、毎日のように潜水作業をしていたのではないかと考えられます。
また、副葬品の中には南国産の貝で作られた貝釧や舶載鏡の位至三公鏡、獣帯鏡等も認められます。これらは当然何らかの形で南国の島や遠くは中国、朝鮮等と親密な関係があった事を示す資料であり、当時それらの地域まで到達できる高度な操船・航海技術を持った集団であったことが伺われます。このことが、大和政権から遠く離れた豊後の地に大型の前方後円墳を築造できた大きな理由であると考えられます。
(外耳道骨腫とは・・・)
冷たい海水が耳に入る状態が、長期間に及ぶとその海水の浸入を防ぐために外耳の軟骨が徐々に張り出し増殖してきます。 結果、真珠のような硬い腫瘍ができ、外耳が狭窄してしまう病気です。現代ではサーファーズイヤーともいわれます。